真っ暗な森と、怒声。

父の背から生えた剣。
母の涙混じりの声音。
――――『ごめんなさい』




そして青年へと成長した彼は、一人の男に出逢う。

未来の王となるべき男に。










□■□










“竜が吸血鬼に襲われた。”
そう慌てふためくトカゲロウの言う通りに映画館へ行ってみると、確かにそこには、気を失った竜がいた。
何とか教会まで運び、明るい電灯の下で確認してみると、その首元にはまるで噛まれたような小さな丸い傷が二つ。
確かにこの傷を見ると、吸血鬼を連想させられてしまう。
だが。

(これは、おそらく…)

『―――お前ェら、あいつが只のシャーマンだなんて本ッ当に思ってやがんのか!』

阿弥陀丸と馬孫に脇を抱えられたまま、トカゲロウが怯えた様子で喚いた。
そう。蓮からすればこれは明らかに、シャーマンの仕業だった。
それも、単なるファイト参加者潰しのシャーマンではない。
先日のチルダからは感じられぬ気配。
狡猾さと、確かな悪意。

すなわち―――ハオの仕業。

だが、トカゲロウは言う。

竜を襲った犯人は、トカゲロウが見ている前で―――霧のように消えてしまったのだと。
確かに、たとえシャーマンであれ生身の人間が出来るような芸当ではない。

だが、かと言って吸血鬼と決めつけるには、余りにもそれは早計だ。

「見間違いだ」

だから蓮は、トカゲロウの言葉を一蹴する。
それに今は相手の正体を議論している場合ではないのだ。

(―――

まだ戻ってきていない少女のことを思う。
嫌な予感がする。
捜しに行こう。迷わず決意したその時。

「リゼルグ様!」

不意に教会の扉が開き、入ってきたのはミリーとエリー、そして―――

!」

蓮の声に、びくりと彼女の肩が揺れた。

(…何だ―――?)

「お前ら……リーリーファイブ!」
「勝手に名前つけないでっ!」

葉の台詞に、エリーがすぐさま言い返した。

「なあんだ。お前らと一緒だったんか」
「彼女とは、さっき途中で会ったのよ」

続く葉の言葉に、を横目で見ながら、エリーが肩を竦める。
どうやら二人はについてきたらしい。
その隣で、ミリーが不安そうに口を挟んだ。

「それより、さっき吸血鬼がどうって…」

リゼルグがそんなミリー達に説明する。
その横で、蓮は注意深くエリーの背後に佇むを見つめていた。
彼女はここに帰ってきてから、無言のままだ。

その顔が微かに―――青ざめている。

――」

どうした。何があった。
そう尋ねようとした矢先だった。

「竜!」



気絶していた竜が、音もなく起き上がった。



「すげえ充血だぞ」
「そういう問題じゃねえ!」

呑気な葉の言葉に、ホロホロが突っ込む。
だが葉の言う通り、竜のその双眸は爛々と真っ赤に光っていた。
そして、土気色の肌。まるで―――墓から甦ったばかりの死人のように。

様子が、明らかにおかしい。

「エリーがブ男なんて言うからよぉ…」
「言ってない!」

怯えるミリーとエリーを睨み付け―――
突如唸り声をあげ、竜が二人へ飛びかかった。










□■□










ガチャリと扉の開く音がして、は目を覚ました。

「―――眠そうだなホロホロ。大丈夫か?」
「あ? あ、ああ…」

葉のからかうような声とホロホロの眠たげな声が、開いた扉の向こう、聖堂の方から聞こえてくる。
やがて葉と蓮が部屋へと入ってきた。

「…蓮、葉…」
「起こしたか」
「ううん…」

はソファから身体を起こすと、小さく伸びをした。
この教会の司祭から泊まっていいと貸してもらった部屋だ。
男女区別なく雑魚寝となったが、贅沢を言える立場でもない。
部屋の隅にある大きめのソファでは、ミリーとエリーが静かな寝息をたてている。

「竜さんは…?」
「特に変化はなし。凍ったまんまだ」

の問いに、葉が答える。

扉ひとつ隔てた向こうに、ミリー達に襲いかかる寸前、ホロホロによって氷に閉じ込められた竜がいる。
ホロホロによればすぐに溶けはしないとのことだったが、一応用心として、交代で見張りをすることにしたのだ。
念のために、俗に言われる吸血鬼の特性を考慮し、女性であるやエリー、ミリーは見張りはせず部屋に閉じこもっていることになった。

―――吸血鬼。
そうあの、美女の血を好み、自在に身体を霧に変え、流れ水と大蒜を忌み、太陽から見捨てられた異形の者。
当初は単なる伝承の産物だった存在が、皆での話し合いの末、今になって現実味を帯びてきていた。
昔、リゼルグの国で書かれたドラキュラという小説。
そして司祭によると、そのドラキュラには実際にモデルとなった人物がいたというのだ。

ヴラド・ツェペシュ。
ルーマニアの領主だったと言う。
その残忍な処刑法から串刺し公と呼ばれ、没後も墓から甦り、今もどこかを彷徨っていると言われているらしい。

たとえ竜を襲ったのがその串刺し公本人ではないにしろ、その後のリゼルグと司祭の説明と、あの目を覚ました時の竜の様子から、全くの無関係とは言えなくなってしまった。
だから用心には用心を重ねることにしたのだ。

因みに今はホロホロとリゼルグが見張りに立っている。

「竜さん、どうしたら元に戻るかな…」
「……やっぱ、その竜を襲った本人に訊くしかねえんだろうな」

葉が大きく息を吐いた。

「…蓮。葉。あのね」
「ん?」
「何だ」

少しだけ逡巡したあと、は意を決したように口を開いた。

「…わたし。竜さんを襲ったひとと、会ったかも、しれないの」

たったそれだけだったが、二人を驚かせるには十分だった。

「どういうことだ」

蓮の問いに、ぽつりぽつりと、不安を吐き出すようには話し始めた。
ハオの名を掲げる、一人の黒ずくめの男。
その名乗りと、出で立ちに――――相手が確かに敵であり、吸血鬼であるという疑いの色は更に濃厚になった。

「どうしてさっき言わなかった」

彼女が青ざめていたのはそのせいだったのかと、ひそかに納得しながら、それでも呆れた風に蓮は言った。
はしゅんと項垂れる。
自分の組んだ指先を見ながら、呟くように答える。

「ごめんなさい…言おう言おうとおもってたんだけど」

ルーマニアの串刺し公の話に呑まれて、話すきっかけを失ってしまったらしい。
そんな二人の間に、「まあまあ」と葉が割って入った。

「とりあえず、今回はハオ絡みだって決定したな」
「ああ。まったく…。他には何もなかったのか」
「え? あ、えっと」

慌てては記憶を探る。
何かと言われて答えられるようなものが他にあったか、何とか思い出そうとする。
呆れてしまった彼の、少しでも役に立つようなことを。
だがいくら考えても、思い浮かぶのは先ほど話した内容とそう大差ないことばかりだった。

そんなの様子に、何故か笑いをこらえながら葉が耳打ちした。

「違う違う。蓮は、お前が怪我してないかとか、そういうことを心配してるんよ」
「葉ッ!」

すぐさま叱責の声が飛んでくる。
だがそれはいつもより少しばかり鋭さに欠け、その証拠に蓮の頬が赤くなっていた。

「だ、だいじょうぶ。なんにもない」
「…本当だな」
「うん。ただ…」
「ただ?」

何気なく、それはの唇から零れ落ちた。
深く考えてのことではなかった。

「口、つけられた」
「は」
「その……手に、だけど」

「………」

(うわあ…)

すうっと周囲の温度が低くなったのを、葉だけがこの場で感じ取っていた。
背中に冷たい汗。
少しだけ後ずさり、二人から距離を取る。

「…れ、蓮?」

急に訪れた妙な気配と沈黙に、ようやくも気付く。
けれど彼女には、どうして蓮の顔が急に怖くなったのかまではわからなかった。

「……来い」
「わっ…あ、え…蓮!?」

強引に腕を掴まれたと思うと、はそのままずるずると引きずられるように、蓮にどこかへ連れて行かれてしまった。
ばたん、と扉が閉まる音。
葉は、やれやれと変な汗をぬぐった。

「…爆弾発言」

の無意識というか、鈍感さには、やはりハラハラさせられる。
同時に、巻き込まれなくてよかったと、心底ホッとした。

も大変だなあ…)

ようやく不器用の中の不器用から一歩踏み出して、己の気持ちに少しだけ素直になれた少年の心は、今まで押さえつけてきた分、まるでリバウンドのように溢れる想いでいっぱいになっている。本人も持て余すほどに。
大事なひとを大事にしたい気持ちも、好きすぎて、独り占めしたい気持ちも、ずっと傍に置いておきたいと思う気持ちも、葉にだって経験がない訳じゃない。



『―――とは、どうなんよ』

聖堂で見張りをしている間に交わした会話。
葉の言葉に蓮は目を見開き、微かに頬を赤らめしばらく黙りこくった後、やがて明後日の方を向いてぼそぼそと口を割った。
それは、貴様には今まで迷惑をかけただとか、悪かったなとか、謝っている割にはえらく尊大で小さく聞き取りにくい言葉だったが、それでも今までの彼を知っていたから、葉にはそこに精一杯の感情が詰め込まれていることが良くわかった。
だから途切れ途切れに聞こえる彼の呟きも、何もかもすっ飛ばして、葉は笑った。

のこと。好きなんだろ?』

それを初めて訪ねたのは、まだアメリカに来て間もない頃。
その時の答えは、心の奥底で揺れながら、それでも無理矢理捻じ伏せようとする、強くて頑なな瞳だった。
だけど。
今は。

『…………ああ』

長い沈黙の末、やっと聞こえた答えは更に小さかった。
けれど葉はそれでも、込み上げる嬉しさを感じずにはいられなかった。
本当はずっと、もう一度二人が笑いあう所を見たかったから。

『…じゃあ、も、うれしいだろうな』
『何故だ?』
『へ、何故ってそりゃ…………って、蓮…お前、もしかして』

何気なく、それでいて確信のもとに呟いた言葉。
なのに当の本人は全くわかっていないように、首を傾げている。
―――嫌な予感がした。

『まさかお前……まだわからんのか』
『何の事だ?』
『何って…………いや、やっぱ、いい』

よっぽど、お前の気持ちは一方通行なんかじゃないんだ、と教えてやりたかったが、葉はその欲求をどうにか抑え込んだ。
あんなにも、はたから見てわかるほどに、好きだ好きだという気持ちを少女は抱え込んでいるというのに。
この男はそれに気付かないのか。

(…まあ、いいか)

驚いて、呆れて、それでも葉は最終的には仕方ないかと思い直した。
気持ちは本人同士が伝え合ってこそ真の意味を持つ。
二人が鈍いのは、今に始まったことではない。
そういう恋も、あったって、いい。
不器用な二人がここまで近付けたのだから、それだけで既に大きな進歩なのだ。



――――そんな見張りの間の些細な会話を思い出して、葉はふうっと息を吐いた。

そう。鈍いのは彼だけじゃないのだ。

「蓮も大変だなあ…」

きっと、の方も全くと言っていいほど、彼の気持ちに気付いていないに違いない。
だってそうでなければ、敵にキスされたなんて凄い台詞、たとえ手にされたことだってああもぽろっと口に出来る訳がない。

おそらく蓮ももお互いに、持て余す自分の心をどうにか認識しようと、それだけで必死なのだろう。
相手が好きで、大切で、その気持ちが予想外に大きくて戸惑っている。そんな感じがした。
初々しいと言えば初々しい。

「ま、時間はたくさんあるんだもんな」

これからあの二人は、少しずつ、ゆっくりでいいから、もっと向き合っていけばいい。
葉はそう自分の中で完結させると、ふわあと小さく欠伸を一つして、ソファに沈み込んだ。










―――ばしゃばしゃと、勢いのついた水音だけが鼓膜を震わせている。

(………冷たい)

洗面台の蛇口から迸る飛沫。その下に強引に手を突っ込ませられたまま、はぼんやりと考えた。

(でも)

蓮の手は、熱い

そっと、隣で彼女の手の甲を洗っているその顔を盗み見る。
それは前髪で隠れていたけれど、若干耳が赤くなっているのが見て取れた。
は再び、自分の手に視線を戻した。
蓮に掴まれた手首。とくんとくんと、微かに脈打つ音を感じる。
それが自分のものなのか、彼のものなのか、それとも二人のものなのか、にはわからなかった。

ほどなくして水音は止み、ぼんやりしている内にのびしょ濡れの手は、いつの間にか備え付けの柔らかなタオルで拭われていた。

「………」
「………」

沈黙だけが二人の間を埋めていく。
何で蓮が怖い顔をしていたのかとか。
何でこんなに、むきになっての手を洗っていたのかとか。
そういう疑問はすべて些細なもののような気がした。

「……急に、すまん」
「ううん…」

蓮が、何やら気まずげに呟く。

けれど、の方も。
せっかく目を見て話をしようと、決意していたのに―――
胸の奥がもぞもぞして、そわそわして、落ち着かない。
目を、合わせられない。
心臓がどきどきしている。

ようやく解放された手を、蓮に気付かれないよう背中に回して、もう片方の手で、はそっと包み込んだ。
彼が触れていた手首を、指先でなぞる。
まだ微かに残っている熱。
すごく大事なもののような。

わたし、今…蓮に、触れられていた

たったさっきのことなのに、改めて思い返して―――そうしてようやく、そのことを実感した。
途端、たちまち頬の温度が上昇する。
今にも火が出てしまいそうになる。
その時はそうでもなかったのに、後からどうしてか、急に込み上げてくる。
心臓の音が、更に早くなった。

は――――



(恥ずかしい……!)



「…あっ…ええと、あの!」
「な、何だ」
「蓮っ、蓮は、えっと、さ、先戻ってて! わたしっ、あの、……お、お手洗い!」

口下手にも程がある。
全く言い繕えていない。
だけどは必死で。
どうしてこんなに必死になるのか、自分でもよくわかっていなかったけれど、とにかく必死で。
そうして蓮の方も、の気迫にやや圧されたかのように、

「あ…ああ」

と、思わずうなずいていた。

「あまり一人で行動するなよ」
「だ、大丈夫っ」

蓮の念押しに、こくこくと力強くうなずいて、は蓮が歩き出すのと同時にそそくさと化粧室の方へと駆け出した。
やがて辿り着き、中に入って扉を閉めた後――――ようやく、はあ、と息を吐き出す。

ひとりになれた。
そのことに安堵感を覚えるのと同時に―――何故?とそんな自分を疑問に思う。

(そばにいたい。それは、ほんとう。…なのに)

ふと顔を上げて、鏡を覗き込むと、なんとも情けない顔の自分と目があった。
そしてやはり頬が赤い。

せっかく頑張ろうって思っていたのに。

いざとなると、どうしても挫けてしまうらしい。
憂鬱そうには俯いた。
思った以上に、この現象は一筋縄ではいかないようだ。

居心地が悪い訳じゃない。むしろ、心地よい。
だけど、なのに―――逃げ出したくなる。
恥ずかしい。

(…どうして?)

恥ずかしいってどういうことだろう。
あれだけ望んで、願って、ようやく手に入れた居場所なのに、どうして、恥ずかしいんだろう?
言葉の選び方を間違っていないか、ほんとうはもっと違う言葉の方がいいんじゃないかと、は自分の中でほかの表現を捜したが、そうして浮かんだ言葉のどれもが、どうもしっくりこない。
やはりその表現が一番、自分の中でぴたりと当て嵌まった。
恥ずかしいのだ。だから、逃げたくなる。

どうしてだろう。

は頬に手をやった。
まだ熱は引きそうになかった。





――――いっぽう、部屋へと戻った蓮を、葉の「おかえりー」という間延びした声が迎えた。

「…って。どうしたんよ」

蓮が一人で戻ってきたことはもちろん、信じられないことに何故かその彼の様子がどこか気落ちしているようで、葉は思わずソファから身を起こした。
だが蓮はその質問に答えることはなく、ただ黙って葉の向かいのソファに座り、ため息をつきながら片手で顔を覆った。
本当にどうしたというのか。
放っておくこともできず、葉は再度尋ねる。

「何かあったんか。…絡みで」

ぴくりと蓮の肩が揺れる。
その姿に、葉はひそかに確信した。
もしかして、この場にがいないことも関係するのだろうか。

「…なあ葉」
「ん?」
「…………俺は、おかしいか」
「へ」
「だからっ……俺の行動は、やはり不審なのかと訊いている」
「いや、えーっと…」

(あー…)

明らかに落ち込んでいる蓮の様子と、の不在、そして今の蓮の言葉。
おそらくそれ以上蓮は詳しくは語るまい。
だから、想像力をフルに稼働させる。
足りない部分を補完して、つなげて、どうにか有り得そうな予想を広げてみる。

「…つまり、お前の今の行動のせいで、が怖がって逃げちまったってことなんか」

たぶん、それで合っていたのだろう。
少なくとも蓮にとっては。
その証拠に、蓮がぽすんと力なくクッションに顔を突っ込んだ。
……なかなかおもしろい光景を見てしまった。

(いやいや、面白がっちゃダメだよな…)

少なくとも、向こうは悲しいほどに真剣で、まじめなのだ。
葉はうーんと唸る。

もし今の自分の言葉が、蓮にとって正しくても……おそらく、若干語弊がある。
のことだ。
蓮の行動に、きっと怖がったわけではなくて―――たぶん、本当に推測の域を出ないのだが―――戸惑った、だけだろう。
それかもしくは―――恥ずかしくてたまらなくて、逃げたとか。
とにかく、別に怯えている訳ではないと思う。葉の中の彼女は、そういう人物だ。

(ていうか、これもある意味惚気…?)

何となく正直に伝えるのも癪で、「まあ、変って言やあ、変だったかもな。お前の行動」と言ってみた。
予想通り、更にずぶずぶと蓮の頭がソファに沈み込む。
…そのままいくと、クッションに埋もれて窒息死しかねないので、腹いせもそこまでにしておこうと葉は思った。
嫉妬、ではない。
どちらかというと……羨ましいんだと思う。

脳裏に、もうずいぶん見ていない彼女の面影が過ぎる。

ああ、会いたいなあと思った。
今頃どうしているだろうか。彼女のことだから、きっといつもと変わりなくテレビ見て煎餅を摘み、まん太をこき使っているのだろうけれど。
ほんの少しでいいから、自分と同じような気持ちだったらいいなと、思った。

「………最悪だ」

不意に、ソファから地獄の底から響くような声がした。
クッションに顔を埋めたまま蓮が呟く。

「怖がらせたかった訳じゃ、ない。…でも、気付いたら、余裕がなくて。大きすぎるんだ。気持ちが」

小さくて、言い訳染みた声。
プライドの高い彼のこんな姿なんてそうそう見れない。

大事にしてやりたい。
守ってやりたい。
誰よりも。
何よりも。

好きで、好きで、好きで、好きで仕方がないんだと。
時には抑えきれないぐらいに。

実際に口にはしなかったが―――葉には、蓮の気持ちが手に取る様にわかった。
じんわりと苦笑が浮かんでくる。

ほんとうに―――どこまでも厄介で、けれども、何とも放っておけない二人なのだ。










―――かつん。

ふと廊下から足音がした気がして、は扉を見つめた。
一瞬蓮かと思ったが、彼とは少し違う、もっと重くて硬い足音だった。

(だれ?)

元より別に用を足しに来たわけではない。
もしかしたら他の誰かが使いに来たのかと思い、はノブに手をかける。
扉は音もなく開いた。

誰もいなかった。

「……?」

は首を傾げる。
気のせいだっただろうか。
確かに、誰かの気配を感じたのだけれど。

「―――ああ、ちょうど良い所に」

突然背後から声が降ってきて、は飛び上るほど驚いた。
いつの間にいたのか、そこに佇んでいたのはこの教会の司祭だった。
祭服の黒い裾が、何やら埃で汚れ白っぽくなっている。

「実は、吸血鬼に関する書物を、以前地下倉庫で見たような気がしましてね…何かお役に立てればと思って、探しているんですが、何分量が量なもので…。大変恐縮なのですが、もし宜しければ、手を貸して頂けないでしょうか?」
「えっと…」

は考える。
このまま部屋に戻って、蓮と顔を合わせて。
ああ、考えただけでまた顔に熱が集まってきた。さっきの洗面台でのこともある。

勿論このままずっと顔を合わせないわけにはいかない。
少しぐらい時間を置いたってそれは絶対に変わらないのだ。だけど…

もうすこしだけなら、離れてても、いいかな。
そう思った。 それに―――
蓮や葉達は見張りをしてくれている。
自分はまだ、何もできていない。

少しはみんなの手伝いになるかもしれない。

そう思ったは、「わかりました」と頷いた。










「―――ありがとうございます。すみません、お休みだったところを」
「いえ、だいじょうぶです」

その後、司祭の後をついて薄暗い地下への階段を降りて行きながら、は答えた。
石造りの壁に、足音が微かに反響している。

「ああ、そこ気を付けてください。少し凹みがあります」
「あ、はい」

(蓮のことは、あとでまた考えよう)

徐々に気温が下がっていく中、はそう思った。
今は、みんなの手伝いを。
気持ちの切り替えをしよう。

「地下には、そんなにたくさん本があるんですか?」
「ええ。それはもう、古い教会ですから」

司祭の持つランプが小さくゆらゆらと揺れる。
やがて辿りついたのは、分厚い扉。司祭がランプを壁の窪みに置いて、鍵を開ける。

そうしてゆっくりと開いた扉の奥から現れたのは―――上の聖堂より少し小さいくらいの、広い部屋だった。

だがはあれ、と首を傾げた。
……さっき、この男は本がたくさんあると言っていなかっただろうか。

ランプに照らされの眼に飛び込んできたのは、がらんとした殺風景な部屋だった。

「あの―――」

本はどこですかと、尋ねようとして。

「まさか、こうも簡単に引っ掛かってくれるとは」

どん、と肩を突き飛ばされた。

「っ…」

咄嗟に手をついた床はひんやりと冷たく、硬かった。
慌てて振り返ったの目に映ったのは――――司祭の、にやりと笑う顔。
なに、これ…?
思考が追いついていかない。

「さあお嬢さん。吸血鬼が、お待ちかねだよ」

そうして―――重々しい音を立て、扉が閉まってしまった。
は呆気にとられたまま扉を見つめる。
閉じ込められてしまった?

―――どういうこと?

不意にぞくりと背筋が冷たくなった。
なんだろう。
なんだろう、これ。
恐る恐る振り返る。
部屋の奥に、誰かがいるのがわかった。

キキッと小さな、コウモリの鳴き声。



「Buna seara。今晩和、また会えて光栄だよ」

闇が、そこにわだかまっていた。